学問としての勉強に楽しみを見出そうとした人の末路
おはようございます。Tayamanです。
昨日ツイートした内容を深く掘り下げていこうとおもいます。
浪人期に通っていた予備校で、やたらと学問としての英語を教える講師がいました。一つ一つの単語の意味を紐解き、語源を探る、本質的な授業でした。しかし、ある意味合格させればいいだけの大学受験に、必要以上に無意味な知識をひけらかすのは、本当に今思うと理解に苦しみます。
— 現役慶大生たちによるガチトーク[文系編] (@5bjSuRTedX03jAG) 2018年6月22日
こんなことを言ったんですが、多くの方がクエスチョンマークだったので、僕が考えることを説明します。
そもそも、受験勉強含め、勉強ってのは、考えるという思考のプロセスを経由しろと、再三ブログの中で主張してきました。
考えることで、この問題はこういうふうな解法で解くんだ、こうやって英文構造を分解すればわかりやすいな、、と、
考えた結果として理解すれば、分かるという楽しさが生まれ、
それを繰り返そうとして考えることがクセになり、いい循環にはまっていくという僕の考えは、
もはや僕だけのものでもないし古くから広く推薦された考え方です。
しかし、その、考えることで喜びのドーパミンを得られる考え方を履き違える人が少なからずいます。
「一部の、カリスマと呼ばれている予備校講師」
がいい例です。
今思えば、僕が通っていた予備校の英語の講師にいました。いや、日本史にもいたかな...習っていたから、大きな声では言えないですが。
彼らの授業ってのは、とてもわかりやすくて面白いんです。
カリスマ特有の説得力と一定の断定口調、よく笑い、受講生の空気を読むのに優れた方々ですが、
しかし、
「受験とは別物の、学問としての勉強の楽しみを教えてしまったら、崩壊する」
と、思います。
どういうことかというと、
要するに合格のためにはほぼほぼ直結しないような、大学で学ぶ内容や、言葉の起源、解法の背景の背景にあるような考え方を、
あたかも次の入試ででるかのようなカリスマ特有の説得力で教えてしまう
ということです。
その講師の授業を聞いた受講生は、
「やっぱりあいつの授業半端ないって!」
「まじあの先生に一生ついていく!」
「頭が良すぎてマジ尊敬っすわ!」
と言い、当の講師もそれに満足してしまい、また同じような授業を繰り返す。
僕の考えになりますが、大学受験、高校受験は、
「受かりゃいい、受からんものを知る必要は全くない」
と、割り切ってます。
そんな、学問としての勉強の楽しさなんていらないんですよ。
理解して分かることの喜びとは、明らかに違うじゃないですか。
例えばですが、ユークリッドの互除法。
ユークリッドが整数問題を互除法で解決できるようにしたときのエピソードとか、いつどこのセンター試験にでるんですか。
商学系の学部で習うような、経営学手法を用いた積分の公式?いやいやどこの検定教科書に載ってるんだ?
数学の解答の別解を、プリントにして大量に配布する講師もいます。そんときは、うわーすげぇ解法、頭いいな!ってなるかもしれないですが、それ必要ですか...
もうひとりで頑張らない。TOEICオンラインコーチスタディサプリENGLISH
こんなことばっかりです。
正しく勉強法としての方向ベクトルを定める。
そうすることで、本当に自分にとって必要な授業を見極める能力をもちましょうね!!
ではでは!!
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